なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・第三信

  なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・第三信
糯ケ坪自治会長 大森 作之

 今は昔、現在の神姫バス篠山営業所や中島の坪の新興住宅地がある京口橋南詰の広大な土地に「篠山観光ヘルスセンター」と云う温泉観光施設がありました。大きな産業の無かった篠山で、「観光都篠山の建設」をスローガンに、当時ブームに成りつつあった総合観光娯楽施設が建設されました。昭和3710月1日にオープンをして、38年度中では、来場者数1617万人(1 500人)の大盛況を呈しました。

 敷地面積は13,000坪もあり、収容可能人数2,000名の豪華な施設でした。ラジウム温泉の大浴場が二つ、牛乳風呂・香水風呂・ネオン風呂にボーリング場・食堂名店街・演劇や歌謡ショウもありました。庭園には池があり、池の中島には動物園が開設され、象・虎・チンパンジー・カンガルーから猪・狸・フラミンゴ・孔雀・インコ等までおりました。

 こうして開場後しばらくは大繁盛が続きましたが、あにはからんや急遽経営者トップ以下が篠山町の公金を流用していたことが発覚し、昭和39525日に多額負債を抱え閉鎖をしました。その後しばらくは「篠山温泉」として更生を試みましたが、これも間もなく行き詰まりました。

 僅か18ヶ月のあっという間で、「真夏の夜の夢」の様な半世紀前の出来事でした。大きな禍根を残しながら閉鎖をしましたが、その年の10月には、東京オリンピックが華々しく開幕されました。


篠山観光ヘルスセンター正面


ヘルスセンター全景・篠山川北側から

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なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・第二信

 なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・第二信
糯ケ坪自治会長 大森 作之

 八上には、昭和47年まで国鉄「篠山線」の鉄道が通り、篠山口駅と福住を結んでいました。池上と境の北村に「篠山駅」があり、糯ヶ坪交差点から八上小学校の北側を経て、今のJA城東八上支店の南側には「八上駅」がありました。

 

 この鉄路は戦時下にあって、基幹産業である製鉄の高炉材料と鋼(はがね)生産に必要な品質日本一の多紀郡から産出する硅石とマンガン鉱石を、九州八幡地区へ運送する能力の増強が国策となり、昭和17年に建設が開始されました。

 

  当時、鉄道路線土地の優先供与と、建設の為に郡内各村毎に勤労報国隊が組織され、僅か2年余りの驚異的短期間で昭和19年3月に開業をしました。しかしながら戦争が終結し戦後復興の一時期での役目を終え、昭和47年に赤字路線の筆頭として廃線の憂目を見ました。
 
 
 今は全く面影がありませんが、過ぎし日々を顧みれば、子供の頃、駅構内に山盛り積まれた硅石から水晶や黄銅鉱を見つけて喜んだことを思い出します。苦難の歴史を刻んだ篠山線ですが、全ては懐かしく思い出に残る事実です。

 
当時の篠山駅構内(昭和43年9月)



糯ケ坪交差点の高架橋を通過する『お別れ列車』

『お別れ列車』の乗車券


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なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・

なつかしの「昔八上」を訪ねて・・・  

糯ヶ坪自治会長  大森 作之  

    ふるさとは年月を経るほど、一層なつかしく、偲び思い出されるものです。自分の幼かった頃の風景が目を閉じれば、頭の中にはっきりと浮かび上がってきます・・・。

    でもこの風景を後世に伝えるすべは、今はアルバムに仕舞われてしまった古い写真にしか残っていません。この貴重な資料が失われようとしています。一度無くせば、二度と日の目をみる事はないでしょう。糯ヶ坪地区では、先人が築き上げた八上の「歴史遺産」を残すべく保存の活動をしています。この活動を八上全体に広げましょう!永遠に失われる前に!

    広報誌「やかみ高城」に、提供頂いた貴重な八上昔風景をシリーズで掲載をします。ノスタルジーを感じつゝご高覧下さい。

【お願い事項】→お家に古い写真があれば、所属の自治会長さんにお渡し下さい。データとして保存をした上で返却致します。 ・・・但し、公開されても良いとの承諾が前提条件です。


「王地山より京口橋、糯ヶ坪方面を望む」(昭和初期)
【解説】京口橋南詰めから京都方面への街道(旧・山陰街道)は、一本の道しかありません。京口橋はコンクリート橋に架け替えられています。篠山川の堤防は、まだ出来ていません。